ぬむめ ブログ

趣味の記録や雑記ブログ

大抵は土曜日に書くことが思い浮かばない的な話

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私のことです。

今までの経験上、土曜日は「書くことが思い浮かばない率」が高いような気がします。原因は、誰もが思いつきそうなことでしょう。月曜からの疲れが貯まり、土曜は放心状態になる。そんなところでしょうか。

私の場合、放心状態になるほど働いていませんので、疲れが原因とは考えにくい。他に何か原因があるはず。ですが、考えてみても原因が思い浮かびません。もう「不思議な何か」のような見えない力が働いている可能性も否めません。

思考は脳の仕事です。ですが、人間の脳の仕組みがすべて解明されていないようです。『思い浮かばない」という現象を、私は脳の問題ではと考えていましたが。ですが、世の中に解明されていないことはたくさんあります。たとえば、宇宙のこと。人が地球の外に出てから100年も経っていないのですよ。宇宙のことがわからなくて当然です。そうすると、私がブログに書く内容が思い浮かばない原因として、宇宙の問題なのかもしれません。

地球には宇宙から様々な物質が降り注いでいます。現代の科学で解明されていることもありますが、わからない現象も数多くあります。もしも、宇宙からの物質による影響でブログに書く内容が思い浮かばなくなる事があるかもしれない。なんらかの作用によって、さまざまな情報を瞬時に手に入れられる世の中でありながら、書くことが思い浮かばない物質が宇宙に存在している可能性はゼロではありません。

そう考えると、私が書くことを思い浮かばないとしても、気が楽になります。私のせいではないからです。宇宙が原因なら仕方がありませんよね。なーんだ、そうだったのか。小さい頃「ムー」を読んでいて良かった。知識が今役立ちました。やはり世界は陰謀に満ちている。

物質が脳に影響を与えることもあるでしょうが、やはり1番の原因は環境ですよね。本を読んだり散歩に行ったり、情報を吸収する機会が少ないのかもしれません。ネットの世界では世界各地の情報を見ているのですけどね。実際に見聞きしないとダメと言うことなんでしょう。融通の利かない脳みそさんですね。

ネットはたくさんの情報を無料で見ることができます。信憑性の薄いものから濃い物まで。当たり前のことですが、本の多くは有料で有益な物が多いのも確か。お金を払うことが、より多くの知識につながるということなんでしょうか。たしかに、お金を出すと元を取ろうとして、一生懸命やったりすることもありますしね。そこが私には足りないのかもしれません。一生懸命やる心。なるほど。

才能や文才がないので、できない理由を一生懸命考えるのはダメということでしょうか。

以上、ぬむめでした。

テニスの広告に襲われる的な話

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数日前、このブログに「テニスやりたいな」という記事を書きました。

その翌日から、ブラウザを始めTwitterまでもがテニスの広告で溢れてしまいました。

テニスの記事を書くにあたって、Googleさんで何かを検索したとか、SNSで検索したとか、一切ありません。ここ数年は「テニス」という単語自体、パソコンに入力していませんので、テニスがやりたいという記事をブログに書いてアップロードしただけで広告が表示されたということになります。

たしかに、私はテニスが好きで、またやりたいなとは思っています。ですが、広告がでてくるのは少々納得がいかない。むしろテニスはやらないと思ってしまうほどです。

テニスについてGoogleで調べまくった、Yahoo知恵袋見まくった、Twitterでテニスやりたい人のツイートを漁った、とかならわかるんですよ。そもそも、ブログの文章以外に「テニス」という単語を入力していませんし、テニスを連想させるような言葉も使っていません。「黄色い丸い物」と入力して「テニス」を連想できる技術が当たり前の世の中であれば納得いくのですが。そうなると、私がいつも書く「ブログに書く内容が思い浮かばない」といった記事で、水に浮かばない鉄の玉や文章を書くハウツー本の広告がでても良いはず。そんな広告は未だ見たことがありません。

広告を非難するつもりはまったくありません。自分に興味のあるものに最適化されるのは、むしろ大歓迎。Web広告から「こんなものもあるんだ」なんて発見は日常茶飯事。広告がありすぎるのは目に余りますが、適度な広告はプラスになることも多いのではないでしょうか。

ただ、不満もあります。

何かを買う時には、ネットで商品の情報を検索したり、価格を調べたりする方も多いと思います。私も1万円以上の品は、失敗し後悔しないように、ある程度は商品の情報を検索します。そうすると、広告にも反映され、購入しようと思った品や関連商品の表示が多くなります。広告をみて「こっちの方がよさそう」なんて事もあるので、広告が役に立ったりもします。

ですが、問題は購入後。大抵は、購入後は新たな情報は必要なくなります。たとえば、冷蔵庫を買ったとして、広告に冷蔵庫が表示されたとしても、買ったばかりの冷蔵庫をまた購入する人は少ないはず。興味すらなくなる人も多いのではないでしょうか。ブラウザなどのキャッシュをクリアすることで改善できる問題ではありますが、それも面倒な物。広告主側にしても、購入されない広告を出し続けるのは効率的とは言えません。回避策もあるのでしょうけど、買い物のたびに、いちいち操作するのも面倒です。

欲しいものや、買おうと思っている商品の広告であれば、購買欲をそそられるのですけどね。購入したものの広告や名探偵コナンばりの予測がされた広告は、やめてほしいものです。

以上、ぬむめでした。

堀越学園の男女交際禁止の裁判が気になる的な話

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決まりや生活スタイルなど、時代によって変化するもの。

それはわかっているんですけどね。民主主義が傾きかけているような気がします。

www.nikkei.com

ニュースの概要は、堀越学園の校則で男女交際が禁止されているのにもかかわらず、男子生徒と交際し校則を破ったため女生徒が退学させられたのを不服として訴えた、という話。

このニュース。正直驚きました。男女交際が禁止されているのも、時代錯誤だなとは思います。ですが、私は訴えてた元生徒に憤りを感じます。人権意識が高い今、時代遅れの校則がある学校側を批判したい気持ちはわかります。気持ちはわかるのですけど、やはり納得がいきません。

まず、堀越学園は私立です。国公立よりも経営者や校長に裁量(経営の自由度)が多くあります。

たとえばの話。「マリファナが自由に吸ってもよい」という校則がある高校があったとします。学校の校則でよしとしてもマリファナを日本国内で所持することは違法行為です。校則が良くても法律がダメなわけです。

ですが、「丸坊頭にしてはいけない」というのは法律違反ではありません。違法行為であるのならば、坊主頭の人は警察に捕まってしまいます。もしも入学する高校に坊主頭にしなければならない校則があった場合、問題なのは、入学する前なのか、入学したあとなのか、というのが問題となります。

坊主頭でなければ入学できないという規則であれば、坊主でいと入学を拒否されてしまいます。それでも入学したいという自らの意思で入学するのです。高校はたくさんあり、坊主頭が嫌であれば他の高校に入学すればよいだけです。どうしても坊主頭高校に入学したいのであれば、坊主頭にすればよいだけです。

ですが、髪型など違反指定がなく高校生活を送っていたにもかかわらず、突然「坊主頭にしないと退学」というルールができた場合は話が違います。入学前のルールであれば、違う高校を選択することで坊主頭になることを回避できた生徒が、入学してから坊主を強制されるというのは、同じ高校にいるためには意思に反して丸坊頭にされるため、人権問題へと発展します。あってはならないことなのです。なぜならば、契約違反となるからです。

契約とは、双方の合意の元に行われる法律行為です。入学時に校則があることを了承し入学したのですから、校則は絶対のルールとなります。反対に、入学してから新たにできたルールであれば、合意のない場合は契約は行われません。実際の高校では、生徒会などで生徒の合意をとる形が多いのではないでしょうか。大切なのは合意があるかどうかです。

日本では少ないかもしれませんが、ドレスコードが決められている飲食店もあります。飲食店の場合、飲み食いする客の方が立場が強い印象を受けますが、法律の下では平等です。売る方、飲み食いを提供する方にも権利があります。「お客様は神様です」精神から、販売側は下手にでなければならない風潮がありますが、法律ではみな平等です。

たとえば「ハゲは入店できません」というお店があったとしても違法ではありません。しかしながら、規制する内容があまりにも過激なものは、ヘイト法など別の法律で規制される場合がありますが、極端な話、身体障害がある方の入店を拒んでも問題はないことになります。倫理的な問題はさておき、様々な商品を選ぶ消費者の権利と同等に、売る側にも客を選ぶ権利があるのです。水を高く売ろうが、ジャージ姿の客の入店を断ろうが、マスクをしてない人の入店を断ろうが、店側の自由なのです。情報社会の世の中では、SNSなどで悪評はあっという間に広まってしまいます。風評被害を恐れなければ、店側が違法行為でない制約を客に指示するのは、何の問題もありません。消費者側は、嫌なら買わなければ良いだけです。

「このお店は気に入らない」や「このお店のサービスは間違っている」など、消費者側からの文句に対応していると、自由に売り買いできる民主主義の精神が崩壊してしまいます。「私はネズミが嫌いだからテーマパークをやめて」など、言いたい放題の世の中になってしまいます。消費者側も、自分の都合ばかり押しつけず、「選択する」意識を持たなければ、何の面白みもない、無機質な未来が待ち受けています。

男女や人種など、差別問題がクローズアップされています。ですが、言い方は悪いですが、差別する側の人権はまったく無視されがちです。男同士で飲みたい、日本人だけで祭りがしたい、など、差別と考えがちですが「そうしたい」という感情の権利を否定されるのは疑問が残ります。

今回のニュースでは、今時「交際禁止」というのが時代にそぐわないことは確かでしょう。ですが、親御さんが交際によるトラブルに巻き込まれないように子供を入学させたかもしれません。交際が禁止されているからこそ、高い入学金を払い入学させたという方もいるでしょう。入学時に選択の自由があったにもかかわらず、校則が意に反していたとしても、入学したからにはルールに従うのが筋です。今回の退学になった生徒は、交際に発展する前に校則を変えるよう訴えるべきだったのです。認められなければ、転校するなどの対応もできます。

今回のように、問題が起きてから社会問題となるケースは多くあります。退学になった生徒が今回のように裁判を起こすことで、問題点として議論されるのは社会のためになることは間違いありません。男女交際禁止というのが時代にそぐわないため、学校側が叩かれる世の中でしょう。裁判に発展するようなので、判決がとても気になります。

以上、ぬむめでした。

昼寝して今起きた的な話

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うっかり昼寝をしてしまい、もうこんな時間。23:35。完全に寝過ぎてしまった。

0時までにやらなければならないこと。それは、このブログを書くこと。

毎日のように0時ギリギリに書いているので、今日もいつもと変わらないと言えばそうなのですけど、頭がボーッとして何も思い浮かばず、かなりピンチ。マズい困った。

無理矢理何も書くことがないのにブログを書き続けるというのは、なかなかの拷問作業です。何も思い浮かばないときは、小学生時代の作文の授業のよう。そう、私は作文を書くのが苦手な小学生でした。

今も得意ではないんですけどね。文章を書くことが。それなのに、ブログを書いているのですから、人生とは不思議な物です。何があるかわからない。若い頃は、将来音楽関係に進みたかったのにもかかわらず、今はよくわからないおっさんになっていますしね。ですが、後悔しているわけではありません。昔も今も、ソコソコ楽しく生きている。これ以上の幸せはない、と思っています。

寝起きに半生を振り返るのは、精神ともども気持ちの悪い作業ですのでやめておきます。そういうことは、時間にゆとりがある時ゆっくりと考えたい。まだ死ぬ予定はありませんので。

昼寝をしている時、夢を見たんですよ。おじいちゃんが本当はドイツ人で私はクオーターだったという話。夢の中では「なるほどな、戦争だったしね」なんて思って聞いて(夢の中で)たんですけど、今考えると、まったく意味がわからない。夢は深層心理や直近であった出来事を参照し見るものだと思っています。なぜドイツなのか、なぜクオーターという話になったのか。意味がまったくわからない。現実の世界でも、じいちゃんがドイツ人という事実などまったくなく、ゴリゴリの日本人。家系もある程度遡ることができる超日本人の方です。なんでドイツが出てきたのでしょうか。私もゴリゴリの日本人ですので。なぜ、そんな夢を見たのかを考えるのが私は好きです。

こんなワケのわからないことを書いても怒られないブログって素敵ですよね。何を書いても、とりあえず誰からも怒られる心配はありません。そもそも、読んでいる人がいないということもありますけど。ですが、そんなことではいけません。人間日々精進です。向上心をもって生きなければならないと私は思っております。

ですが、明日のことは明日考える。今日は何か美味しい物でも食べて、また寝ようと思います。明日明日と、先延ばしばかりしていると地獄が待ち受けているものですけど、それも明日考えます。

以上、ぬむめでした。

今年の節分は中止しました的な話

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みなさん豆まきして太巻きをどこかの方向を見て食べましたか?2021年もあっというまで、もう節分です。

私が幼少の頃は、豆まきをした記憶がありますけど、大人になってからは、めっきりしなくなりました。最近は新たな豆まき文化である「恵方巻き」を指定された方角を見ながらかぶりつくなど、巻き寿司が嫌いな方には拷問のようなイベントが追加されましたね。今後の豆まきイベントも、さまざまなバージョンアップの可能性があるのかと思うと、少し楽しみでもあります、

子供の頃、豆まきをした記憶があるのですけど、あまり良い思い出は見当たりません。

私が幼い頃、良心が忙しく、幼稚園ではなく保育園に通っていました。節分の日に先生が鬼役となり、子供たちが豆をぶつけるイベントがあったのを記憶していますが、幼心に疑問をいだいてしまったのが、良い思い出がない原因なのかもしれません。

私が行っていた保育園は「食べ物を大切にする」という精神がとても強く、お弁当やおやつを残すと食べ終わるまで居残りさせられていました。お昼ご飯のあとにはお昼寝タイムがあり、おやつ時間のあとには遊びタイムがあり、食べ物を食べたあとには楽しいイベントがまっています。残してしまうと食べ終わるまでずっと居残り。みんなが遊んでいる中、くらい教室で何度居残りさせられたことか。「残さず食べる」というのは大切なことです。決して否定はしません。ですが、食べられないものがあるのであれば仕方が無いのでは?なんて子供心に思っていました。私は白い包み紙でイチゴの柄が印刷されている飴だけは、どうしても食べられなかった。今はあるのかわかりませんが、もちろん食べられません。トラウマです。

ですが、2月2日には状況が変わります。食べ物である豆を武器にし敵を倒すのです。あんなに大切に食べるまで居残りさせられていた食べ物をですよ?食べないで敵にぶつけるのです。子供が投げる豆なんて殺傷力があるわけなく、豆は鬼役にぶつかり床に落ちます。床に落ちた豆を拾って食べようとする子供がいたら先生は「落ちた豆は食べてはいけません」と言う。もう意味がわからない。豆は食べなくてよくて、イチゴ飴は食べなければならないのか?イチゴ飴のほうが強いのか?と思ってしまった。豆は加工次第で豆腐や納豆などさまざまな食品になります。日本では欠かせない食物です。ですが、イチゴ飴は私にとっては魔界にある悪魔の食べ物と同等であり忌み嫌う玉です。私が食べられない以前に、どう考えても大豆などの豆類のほうが人類にとって「強い」存在ではないかと、幼心に思っていました。

豆まき行事に詳しくないので詳細はわかりませんが、投げた豆を食べる文化もあるでしょうし、なにかしら再利用しているかもしれません。ですが、投げた豆を捨ててしまうのは、幼心に英才教育された「食べ物を粗末にしない」という精神に反したものであり、あまり良い気分はしません。

太巻きを食べる方が、豆が無駄にならず良いような感じもします。ですが、太巻きは日持ちせず、余った物は廃棄でしょう。乾燥している豆であれば保存も利きますし、工夫次第では食べることもできます。年の数だけ豆を食べるのも超ハード。太巻きを切らずに食べることは老人にとってはハードモード、というか喉つまりの危険があり命がけ。一体、どちらがよいんでしょうかね。

ということで、今年(も)我が家の「節分」は中止となります。